ご進物のご紹介です。
和菓子のようですがろうそくです。
月命日ごとにひとつずつ、季節のお供え。
うつろいゆく日本の美しい四季を丁寧に表現した、
手作り和菓子風のろうそく。
月命日ごとに火を灯し、お供えいただけます。
価格:3,800円(税別) 陶製皿付 香り付。
決してたべられません。おいしそうですが・・・
火を灯すと だんだん溶けてなくなっていきます。
まるで故人がパクパクおいしそうに召し上がっているようで・・・
過ごしやすい日が続き、日増しに暑さを感じられる今日この頃・・・
精霊棚です。(盂蘭盆に供え物をして精霊を祭る棚)
パーソナル仏壇の脇にハーバリュウムを置いて
こんな感じになります。
盆提灯の代わりに・・・
今日、桜の花びらがヒラヒラと舞っていました。
とてもきれいな桜の花びらのトンネルを
前を気にしながら
車で走り抜けました。
桜をイメージしたシックな感じのお仏檀があります。
桜色のかわいらしい仏具とセットで・・・
今年は入学式前に桜が散ってしまいそう。
少し寂しい感じがします。
ご入学おめでとう!
梅一輪
昔、中国の詩人が春をたずねて、一日中、野山を散策したが、つい春を見つけることができず、疲れた足をひきずってわが家に帰り、ふと庭先の梅の梢に花のふくらみを発見し、 春になると梅の花が綻ぶ。そうだとすると春と梅の花は別物ではない。春といえば春の中に梅の花がおさまり、梅の花といえば、梅花一輪の中に春がその姿を宿している。春夏秋冬、みな同じことで、道元禅師はこの間の消息を、 「春は花、夏ほととぎす 秋は月
と詠っている。 映画のフイルムを見ると、一コマ一コマに少しずつ違った情景が写されている。しかし、それを一秒間24コマのスピードでまわすと、独立した一コマ一コマが抜き差しならない一つの連続した動きとして目に映る。
「歳々年々、人同じからず」
無常の世なのである。
春の到来をめでると共に、花の命に思いを馳せることも、春の風情ではなかろうか。
『佐藤俊明氏 ちょっといい話』より抜粋
「春はこんな身近にあったのか」
と、感激の詩を賦している。
冬雪さえて すずしかりけり」
別々でありながら一つにつながっている。時の流れもこれと同じで、春は花、夏はほととぎす、秋は月と、それぞれ趣を異にしているように、別々の内容を持った一瞬一瞬の連続によって成立っているのである。
ところがわたしども映画を見ているように、「年々歳々花相似たり」で、来年もまた同じように花が咲くとのんびり構えているが、実は
日本語の熟語には仏教由来のものが多くあり、そのひとつに「挨拶」があります。
国語辞典には「人に会った時や別れる時などに取り交わす、礼にかなった動作や言葉」と書かれています。現在、行なわれている挨拶としての意味です。しかし仏教語辞典によると、本来の仏教語としての意味は「師匠が弟子の悟りを推し量る事」と書かれています。
又、それぞれの漢字の意味を調べると「挨」は軽く押すこと、「拶」は強く迫ることです。師匠が弟子の悟りを推し量るために、弟子に軽く問題を出し、それに弟子が自分の悟りを示そうと、精一杯の力で師匠の問題に応える。つまり「挨拶」とは禅問答です。
禅問答は師匠と弟子の真剣勝負なのです。問題を出す師匠も弟子を見極め、応えられるギリギリのレベルの問題を出し、それを精一杯の力で弟子が応える、こういう問答を繰り返して、師匠は弟子を深い悟りへと導くのです。
そして私たちが普段の挨拶もきちんと行なえば、禅問答に劣らぬ仏道修行になります。状況や相手を見極め、その場に応じた言葉を出す、または自分に向けられた言葉に精一杯応えることで禅問答と同じ「挨拶」になるのです。
禅問答と聞くと特殊なことで、特別な所でなければできない、自分たちの生活とは程遠いものだと感じるかもしれませんが、普段の挨拶という身近なことで同じことができるのです。
Author:kariyaButsu
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